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<安重根義挙100年>生き残った者の悲しみ
(聯合ニュース 韓国語 2009/10/21)  


1945年8月15日、「外敵が降参した後に私たちも故国に帰る準備」をした臨時政府首脳陣の中で白凡・金九(キム・グ)一行は、その年「11月5日、選抜で重慶を出発して5時間の飛行の末に(その日午後)6時に上海に着陸した」この時の感慨を白凡は「13年前に離れた上海の空気を改めてまた呼吸することになった」と詠じた。


13年前、上海を離れる時に比べて、ここに住む私たちの同胞は何十倍も増えた事実を指摘して、白凡は話題を変える。


「しかし、外敵との戦争で生活難がより一層激しくなったのを理由に各種工場や事業方面で不正な業者らが続出した。そうした中で以前の独立精神を堅く守って倭人の手先にならない人々は、(略:9名の名前)などわずか10余人だけだった。彼らの堅固な志をよみして徐丙浩の家で晩餐会を開いて記念写真を撮った」


これは、それだけ日本の手中に落ちた上海で“民族の志”を守って生きぬいた朝鮮同胞が珍しかった、という意味であろう。


そんな親日反逆の輩の中でも白凡は唯一ひとりだけは許せなかった。 白凡逸誌に見える一節だ。


「民族反逆者に変節した安俊生(アン・ジュンセン)を逮捕して絞首刑に処しろと中国官憲に頼んだが、彼らが実行しなかった」(?京植訳注 白凡逸誌619ページ)


安俊生がいったいどんな人物なので白凡はこのように怒ったのだろうか?


1939年10月7日、上海居住朝鮮人14人で構成された『満鮮使節団』が京城に到着する。親日団体の上海駐在朝鮮人会会長の李甲寧を団長とする視察団一行は、京城到着と共に朝鮮総督の南次郎を面談したりもした。


これらの故国訪問の便りは、東亜日報と朝鮮日報、そして総督府機関紙の毎日新報にも報道された。


これらの新聞報道を比較すると、記事の比重に明確な違いが生じている。


東亜日報39年10月10日付は《上海朝鮮人実業家昨日歓迎会盛況》という1段の記事で簡単に、李甲寧を団長とする視察団が故国を訪れて歓迎会が開催された事実だけを伝えた。


朝鮮日報は10月2日付で《上海在留同胞郷土訪問視察団来7日午後に入京》という2段の予告記事を載せたのに続き、10月7日付夕刊では《30年ぶりに見る古土、物心間に新開闢》という3段の記事を通じてこれらの訪問事実と活動、そして訪問者名簿をそえて詳細に報道した。


この訪問者名簿に“安俊生”という名前を発見することができる


この安俊生は、10月15日に『博文寺』に現れる


ソウル,奨忠壇公園、今の新羅ホテルの場所にあった寺刹を訪れたのだ。正式名称が菩提寺の寺刹が博文寺と言う理由は、名前から推察できるように、1909年10月26日に安重根に射殺された伊藤博文を追慕するために建てられた寺刹だったためだ。


こうした寺刹に他でもない安重根の次男・俊生が現れたのだ


それなら俊生は博文寺でどんな事をしたのだろうか?


親日新聞である京城日報の10月16日付には《亡父の贖罪は報国の誠意で》という題名の下に《伊藤公の霊前に頭を下げる》《運命の息子俊生(重根の遺子)君》という副題で、俊生が前日博文寺を訪れて伊藤の霊前に焼香して、準備した安重根の位牌を奉って追善法要を挙行したという行跡を伝えた


この席で俊生は「死んだ父の罪を私が贖罪して全力で報国の最善をつくしたい」という意志を表明する。


翌日の10月16日、俊生は朝鮮ホテルで伊藤文吉に会う。当時、日本鉱業公社社長であった文吉は伊藤博文の次男だ


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伊藤の息子(右側の前)に会った安俊生(一番左)


この二人の出会いを写した'歴史的な写真'は、毎日新報10月18日付の《劇的な対面・如兄若弟(兄弟のよう)、呉越30年永釈(永遠に解く)》という大きい題名の下に収録された記事に添付されている。


これらの出会いを写した写真を日本人近現代史家の水野直樹・日本京都大学人文科学研究所教授が伊藤の子孫の伊藤博昭から捜し出して、韓国と日本で同時に発刊された近刊『韓国と伊藤博文』に紹介した。(398ページ)


水野教授は安俊生に対して、「詳しい経歴は分からない」としながら中日戦争以前には独立運動にも関係していたようだと話す。それと共に水野教授は安俊生が1950年に中国から韓国に戻って、その次の年に死んだという他の人の研究成果を引用した。


安俊生の行跡、その中でも1939年の故国訪問直前までの活動状況と故国訪問時のより詳しい行跡は、昭和14年(1939)10月17日朝鮮トウショク(?)部で作成した『在上海朝鮮人満鮮視察団鮮内視察情況』という日本外務省警察史資料で残っている。


聯合ニュースが最近発掘したこの資料によれば、故国訪問当時、安俊生は33才で母親の『マリア』とともに上海に居住すると出てくる。彼は安重根が国外に脱出した時は母親の胎内にいたという。


とにかく、白凡が解放をむかえて帰国した時、多くの親日反逆の輩の中でも唯一、安俊生を取り上げ論じて彼を断罪しようとした理由はまさにこうした行跡から始まる


白凡逸誌によれば、白凡は東学に参加して、黄海道一帯で蜂起をした時は安重根の家に寄居して暮らしたりもした。


安重根の家とはそのような縁があり、しかも安重根の義挙を誰より高く評価していた白凡だが、いくら彼の息子といっても露骨な親日行跡を見せる安俊生を許すことはできなかったのだ。


これは逆説的に朝鮮総督府や日本としても安俊生は他でもない安重根の息子なので、内鮮一体に利用するほどの価値があると判断したのであり、それで安俊生を'利用'しようと執拗な努力を傾けたのだろう。


安俊生の親日行跡は、もしかしたら安重根の血縁として生き残った者の悲しみだっただろう。


安俊生の親日行跡は少なくとも学界では公然の秘密だが、国内どの研究者もこうした事実を指摘しない。それだけ安重根が持つ英雄性が絶対的であるためであろう。(機械翻訳 若干修正)


こうしたこともあって、安俊生が亡くなると、妻が子供を連れて渡米するんですね↓。
愛国烈士・安重根の子孫として米国でウィキペディアの書き込み・修正をしているニダ!


歴史を偽造する韓国―韓国併合と搾取された日本
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韓国ニュース | コメント(18) | トラックバック(0)
コメント
  1. 国の英雄はテロリスト
    英雄の息子は親日派
    はぁ~チョンチョン♪
  2. 管理人さんも(良い意味で)タチが悪いWWW
    こういうオチ付きだったのか。
    しかし
    >絞首刑に処しろと中国官憲に頼んだが
    どこまでも他力本願な独立派ですねW
  3. その時その瞬間
    もっとも益を得られそうな勢力の子分になる。
    朝鮮人に刻まれた事大主義のDNA!
  4. 過去に向かって全力疾走だなw
    そろそろ未来に目を向けてもいいんじゃね?
  5. 韓国は自滅しろよ
  6. 南トンスリアの英雄はちょっと脚色を加えて美化したなんてレベルじゃないからなぁ。
    愛国の義士の息子が親日家w
    同じ妄想上の英雄なら架空の人物を英雄に仕立て上げたほうが無難だと思うよ。
  7. 都合の悪いのは見えないニダw
  8. 併合反対の伊藤殺害→併合賛成
    チョンの英雄って底抜けのバカじゃない・・・
  9. > それで安俊生を'利用'しようと執拗な努力を傾けたのだろう。
    都合のいい想像をめぐらすな。こんな考えで言い訳ばっかりしてるから進歩しねえんだよ。
    > 学界では公然の秘密だが
    もはや学問ではないな。
  10. いつまで併合消極派だった伊藤を殺したマヌケを英雄として祭り上げるのだろうか…。
    テロリストを祭ってるだけで、もう近代国家としてはダメダメだよなあ。
  11. 今からでも遅くないから死刑にしろw
  12. 親と子の生き方が違って何の問題がある?
    20世紀も中葉になって「三族誅戮」しようとか思ってたの?
    こんな屑が政権の座を狙ったりするから李承晩なんかに大統領の座を掻っ攫われるんだよ。
    間抜けどもめ。
  13. つまり息子はマトモで、その子孫は韓国人のエリートということですね。
  14. こんな国なら嫌いになるのもわかるなぁ
  15. >生き残った者の悲しみ
    あー、生き残った息子の心が'貧乏'だってことか?
    「悲しみ」の語源は渡来人が発した「カーナーシミー(貧乏民)」ニダ! http://specificasia.seesaa.net/article/120424219.html
  16. なるほどそう言うオチでしたか。
    「安重根の物語」は
    キャハハ(o_ _)彡☆バンバン!!
    ネタにさせて貰いました。
    はなさん、有り難う御座いますm(__)m
  17. この写真と息子の親日行為をまとめたハングルのビラ作ってウッカリしようかなw
  18. ※8に捧ぐ
    伊藤が併合反対だったのは、日露戦争前後の時期までで、以降の大韓帝国皇帝と大韓帝国政府の稚拙かつ日本の安全保障に対する脅威を誘発する施行の数々に嫌悪を示し、晩年の伊藤は併合容認の状況だったような気もする。

    それを裏付けるように、伊藤在命中に大韓帝国の司法権や警察権を掌握したり、おそらく在命中に起草されたであろ、日露協商条約の交渉過程において、伊藤死亡直後の事前交渉で、ロシア側から日本による朝鮮の併合の容認が密約されていた可能性が高い。
    日露協商条約の交渉は死亡直後1ヶ月で行われているが、交渉案の起草は確実に伊藤存命中に行われていると考えられるので、伊藤もその内容について知っていたと考えられる。

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