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鉄砲伝来はポルトガル? 中国? (ニッケイ新聞 2005/9/24)

「鉄砲伝来」は偶然じゃなくポルトガル商人が倭寇を窓口にして売り込みに来たという説もあります。 その説によると、

 平戸や五島列島を拠点に大陸や半島と交易していた倭寇(当時はほとんど大陸系の人たち) の王直の中国船に乗ってポルトガル人が種子島にやって来ました。そして種子島島主である種子島恵時・ 時尭親子に鉄砲の実演を行いその威力を見せ付け、デモンストレーション用で持ってきた中から2挺の鉄砲をまず販売しました。 高額で鉄砲が売れたことに喜んだポルトガル人と王直は「これで日本全土へ鉄砲を販売し大儲けが出来る」 と目論見ましたが期待通りにはいきませんでした。 なぜなら種子島恵時らは刀鍛冶の矢板金兵衛に命じて複製を研究させ鉄砲の国内生産にこぎつけてしまったからです。 鉄砲販売での利益が無くなってしまったポルトガル人や倭寇達は、火薬の原料の硝石(日本では産出されない) を売って儲けを出していましたが、これも国内での生成方法が確立されるにしたがい販売量は減ってしまいました。という話らしいです。

 

ニッケイ新聞(2005/9/24)

 「イゴシサ」は、種子島に鉄砲が伝来した年であり、 日本史を勉強し始めた頃は暗記するのに苦労したものである。云うまでもなく1543年でありポルトガル人が持ってきた。 この鉄砲が日本の戦さの仕方を根底から変える。織田信長は鉄砲作戦の名手で武田勝頼との「長篠の戦」 では三千挺の火縄銃で武勇を誇る騎馬武者を次々に討ち取ったとされる
▼しかも鉄砲隊を三つにわけ第一陣が発射すると第二陣が続き、第三陣が打つという三段構えの戦法は信長発明と伝えられる。と、 ここまではいいのだが、この鉄砲を種子島に伝えたポルトガル人を乗せてきた船は、当然ながらポルトガルの船だとばっかり思っていた。 ところが、最近の高校生の教科書には「中国船」となっているのが多いそうだ
▼産経抄を35年も書いたコラムニスト・石井英夫氏がやっぱりポルトガル船派である。 「天文一二(一五四三)年にポルトガ船が種子島に漂着し、鉄砲を伝えた」と産経抄に記したところ、抗議の電話や手紙があったという。 「中国船」だという主張であり、 高校の教科書にも記載されているの趣旨で達意の文章で知られる石井氏も往生したと小文に綴っている
▼もう還暦を過ぎた世代は、恐らくポルトガル派が多い。だが、近頃は中国船派が増えている。あのジャンクの推測なのだが、 きちんとした史料が見つかったとは聞いていない。それにしても―領主の種子島時尭が、何故?船の国籍をしっかりと記録しなかったのか。 謎の多い船ではある。

日本ニュース | コメント(10) | トラックバック(0)
コメント
  1. 初耳でした。ポルトガル船だと教わりそう信じてましたから。
    確かにジャンクの可能性もありますね。
    ただ資料もないのに支那船だと断定して教科書に載せるのはいかがなものかと。
    今後の研究に期待ですね。
  2. わーい、ランキング49位にはいりましたね。
    これからどんどん上がりますよ!
    おめでとうございます~~♪
    私もずっとポルトガルだと思ってましたよ。まだ還暦前なんですが。
  3. システムさん chisaさんありがとうございます。
    実は、私もこの説はつい1,2ヶ月前に知ったばかりなんです。
    他にも、驚異的な普及量からみて「もっと前に伝わっていた」とか、「同時期に数ヶ所に伝わっていたが軍事機密として公表されていないだけだ」などの説もあるそうです。その原因として“鉄砲伝来”の国内唯一の史料が“鉄炮記”という種子島時堯の孫の種子島久時が鉄砲伝来から60年近く経った1606年に編纂を命じ、「種子島家の偉業を伝える」目的のためにつくられた資料だということらしいです。今後、「1959年の伊勢湾台風で崩れた蔵の中から発見された」とされる“武功夜話”(真偽性について疑問符も数多くあるそうですが)のような史料など発見されれば歴史書も大きく変わるかもしれませんね。
  4. ちなみに王直の船が来た年も1543年と教わった人が多いと思いますが、学界ではかなり以前から1542年のほうが有力です
  5. そもそも、信長は鉄砲の力で日本を統一したわけではない。単純に彼の領国の様々な地理的条件(石高・交通など)が他の諸侯より有利だっただけだ。
  6. 当時、ポルトガル人は倭寇と一緒に密貿易を行っていて、その結果倭寇の首領王直の船(ジャンク船)で意図的に日本に来たと考えています。日本の史料である「鉄砲記」は、鉄砲が伝来したという1543年の60年もあとに、種子島時堯の孫が薩摩の国のお寺の和尚に書かせたもので、時堯自身が書いたわけでもないし、そのときに記録しておいたものでもないので、丸ごと信用するのは危険だと思います。(はなさんが同じようなことを書いていましたね。失礼しました。)ついでにいいますと、倭寇(後期倭寇)の活動や、琉球を含めたアジアの貿易、東南アジアの歴史など、20年以上前には考えられなかったような内容です。
  7. 信長の鉄砲三段構え、
    発明は雑賀衆です。
  8. 十年も経たない内に日本のあちこちで鉄砲使用が確認されており、中国人というより日本と関係が深い倭寇が同時に多数の場所に売り込んだという方が遥かに現実的。
    大内氏などはかなり早い段階から鉄砲を所持しており、種子島にだけ持ち込んだというのは疑問。
  9. 長篠での勝因は単なる大量の鉄砲ではなく、堀・土塁・柵を用いて野戦陣地を構築した点にあります。
    これもどうやら西洋の戦術を真似たらしく、信長の良いものはなんでも取り入れてそれを軍隊組織全体に適用してしまう革新性をあらわしている。
  10. 信長の三段構えの戦術は実際は行わなかったという説もあります
    鉄砲が急速に日本に普及した理由の一つには
    高度な製鉄技術を有した刀鍛冶師が多く存在したことにも因ります
    これだけ短期間に普及した鉄砲が
    以後幕末に至るまで何の改良も成されずにいたというのは
    想えば不思議なことです

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