上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告
異説「故郷忘じがたく候」
(毎日新聞 2006/11/26)

 少し旧聞になる。県人会「ソウル薩摩会」の創立10周年記念の講演会が、このほどソウルで開かれた。

 会長は産経新聞ソウル支局長の黒田勝弘さん。黒田さんは実は大阪出身・京都大卒なのだが、ご両親が鹿児島県生まれのため「鹿児島出身でごわす」などとヘンな鹿児島弁をつかいながら、会長を務めている。

 会員は40人ほどか。ソウルにある県人会の中では、ミドル級といったところだろう。最近は宮崎県人会との合同例会を開いて、焼酎を飲んだりして、皆で楽しんでいる。鹿児島県霧島市出身の私も、もちろん会員である。

 記念講演会のスピーチは、作家・文芸評論家の関川夏央さんが来韓して行ってくれた。黒田さんの古い友人で、私も何度か話をしたことがある。鋭い分析力とバランス感覚に敬意を払っている一人だ。ルポタージュの名作「ソウルの練習問題」(最近、集英社文庫に入った)は、1980年代の第一次韓国ブームに火付け役となった。

 「ソウルは10数年ぶりです」と関川さん。どうですか、久しぶりの印象は? 「すっかり先進国ですね。若い男の子たちが細面の顔立ちをしている。中進国時代の荒々しさがない」。さすがに観察眼は鋭い。「焼酎の度数が軽くなったね」「一人で食事している韓国人を見た。以前にはなかった現象だ」。目のつけ所が的確である。

 30年近く韓国で定点観測している黒田さんが「近年、若い男性のヤサ男化が目立つ」と書いたのは、1999年のことだ(産経新聞「ヨボセヨ」)。このころ、韓国にも「ホストクラブ」が生まれた。保守から左派政権へ。時代の変わり目は、このへんだったのかな?と思う。


 さて、講演の話である。

 テーマは「司馬遼太郎と韓国・朝鮮・薩摩~小説『故郷忘じがたく候』を中心に」だった。そのさわりを、西日本新聞(10月30日付け、原田正隆特派員)が報道している。引用しておこう。

 <関川氏は小説の内容を踏まえ、文禄・慶長の役(1592~58年)で島津義弘が朝鮮から薩摩に連れ帰った陶工集団について(1)薩摩に来たのは豊臣秀吉軍の日本帰還から約2年後だった(2)17の姓それぞれの集団がほぼ均等の人数で構成されていた(3)朝鮮での地位は高くなかった--と指摘。その上で、陶工集団は豊臣軍が強制的に連れ帰ったのではなく、望んで渡来した、もしくは朝鮮側の選抜によって渡来したのではないか、との仮説を提示した。

 司馬氏の名作を彩る「朝鮮陶工=強制連行説」からすれば、きわめて意外な「仮説」なのだ。しかし、関川さんが指摘したように、「故郷忘じがたく候」を丹念に読めば、上記のような仮説は十分に成立する。


 司馬作品を読み直してみた。

 文春文庫版で言えば、19ページ「姓氏は17氏」。26ページ「逃げおくれた沈姓以下七十人ほど」。30ページ「どういう船できたのかはわからないが、日本人船頭が操船していた形跡がない。しかも薩摩にやってきたのは、この翌年なのである。途中、なにをしていたのであろう」。31ページ「かれらが串木野の浜に漂着したのは、関ケ原ノ役の直後(中略)だった」。これらが「関川仮説」と関連するくだりだ。

 念のために、西日本新聞の記事中(2)の点について付記すると、金、李、朴、崔、鄭といった姓が韓国人の全人口の54%を占めている(2000年国勢調査)実態からすると、「17姓、約70人」という朝鮮陶工の構成には、人為(選抜)が感じられるということなのだ。

 上垣外憲一「文禄・慶長の役」(講談社学術文庫)も読んでみた。「豊臣秀吉の侵略戦争」に関する基本図書と言える本だ。もちろん「苗代川の陶工」についての記述がある。ここには「慶長三年(一五九八)、朝鮮の陶工たちは薩摩国串木野島平に上陸した」(180ページ)と書いてあった。

 あれっ!? 司馬氏の記述(「関ケ原ノ役(1600年)の直後」)とは、漂着年に大きな差がある。どちらが正しいのだろうか? 上垣外説が正しいとすると、関川説は成立しなくなる……。


 関川さんからは、荒山徹「故郷忘じたく候」という小説の存在も教えてもらった。「忘じがたく」ではない、「忘じたく」である。つまり、忘れたい!

 荒山氏は読売新聞の記者出身だ。出版社勤務を経て35歳で語学留学した異色の経歴の持ち主である。かつて、李舜臣暗殺の陰謀を書いたデビュー作「高麗秘帖」(祥伝社文庫)を読んだことがあった。半村良の伝奇小説をコリアチックにした感じだ。

 荒山氏の「故郷忘じたく候」について、ネタ晴らしになるので、詳しくは説明しない。

 ポイントは、文禄・慶長の役によって「強制連行」された朝鮮人の中に、戦後の「回答兼刷還使」(第3回朝鮮通信使までの呼称)の帰国呼びかけに応じなかった人々が多数いたという、「史実」に基づくフィクションであるという点だ。

 「自ら積極的に日本に来ることを望んだ例を、とき(小説のヒロイン)は自分の目で見て知っている。たとえば、陶工たちがそうだった」(109ページ)。この小説には、こんな刺激的な一説すらある。

 「韓国人が読んだら、激怒するだろうなあ」。最近、日本から来た旧友連中と飲んでいて、話題が「故郷忘じたく候」になったとき、友人の一人は苦笑しながら、そう言った。別の友人は「陶工たちに姓があったというのは、にわかに信じがたい」と語った。朝鮮王朝時代には徹底した身分差別があったのが「史実」だからだ。

 上垣外「文禄・慶長の役」(103ページ)に、漢城市内の下層民が日本軍の到着以前に、奴婢の記録類が保存されている王宮の建物を焼き払ったことが記述されている。現代の韓国人たちが、日本人に向かってほとんど話さない「史実」のひとつでもある。


 関川さんの「仮説」によって、私は思いがけず、「文禄・慶長の役」について、改めて勉強してみる気になった。

 熊本県の加藤神社には、清正に殉死した朝鮮人・金官が合祀されている。その説明文はこのほど、韓国側の指摘を受けて撤去されたという。有田焼の陶祖・李参平の碑文(1917年建立)にある「征韓」などの表記には、韓国側からクレームがつき、昨年、新しい碑が建立された。(征韓?、韓国では依然として「対馬征伐」という表記がまかり通っているのだが・・)

 上垣外「文禄・慶長の役」を読んで面白かったのは、豊臣秀吉による戦争を「東アジアにおける外交戦略」の不在として、とらえていることだ。「秀吉は女真族との同盟など最初から頭になかったし、海軍力で有力な同盟国になりえたはずのスペイン、ポルトガルに対しても拙劣な働きかけ方で、協力を取り付けられずに終わっている」(学術文庫版あとがき)。

 白村江の戦い、秀吉、第二次大戦、小泉外交……。「東アジアにおける外交戦略」は現代的な課題でもある。

 秀吉軍の出撃基地になった名護屋城跡に建てられた佐賀県立名護屋城博物館(唐津市)に、まだ一度も行ったことがない。早めに訪問してみたい。

下川正晴(しもかわ・まさはる)
1949年鹿児島県生まれ。大阪大学法学部卒。毎日新聞ソウル、バンコク支局長、論説委員などを歴任。立教大学大学院博士課程前期(比較文明論)修了。05年3月から韓国外国語大学言論情報学部客員教授(国際コミュニケーション論、日韓マスメディア論)、ソウル市民大学講師(日本理解講座)。日韓フォーラム日本側委員(01~03年)、NPO「韓日社会文化フォーラム」運営委員(04年~現在)。


西日本新聞の元記事。

ソウル薩摩会10周年 関川夏央氏招き記念講演(西日本新聞 2006/10/30)
 
 鹿児島県ゆかりの韓国在住者でつくる親ぼく団体「ソウル薩摩会」(会長=黒田勝弘・産経新聞ソウル支局長、40人)がこのほど、発足10周年を記念した文化講演会をソウル市内で開いた。

 講師は、1980年代の「第1次韓国ブーム」の火付け役となったルポタージュ「ソウルの練習問題」で知られる作家・評論家、関川夏央氏。旧知の黒田会長からの依頼を快諾し、十数年ぶりに訪韓した。

 演題は「司馬遼太郎と韓国・朝鮮・薩摩小説『故郷忘じがたく候』を中心に」。

 関川氏は同小説の内容を踏まえ、文禄・慶長の役(159258年)で島津義弘が朝鮮から薩摩に連れ帰った陶工集団について
 (1)薩摩に来たのは豊臣秀吉軍の日本帰還から約2年後だった
 (2)17の姓それぞれの集団がほぼ均等の人数で構成されていた
 (3)朝鮮での地位は高くなかったと指摘。
 その上で、陶工集団は豊臣軍が強制的に連れ帰ったのではなく、望んで渡来した、もしくは朝鮮側の選抜によって渡来したのではないか、との仮説を提示した。

 ソウル薩摩会は1996年9月に発足。以来、毎月1回、韓国在住の鹿児島県出身者や、同県在住経験のある韓国人らが夕食を囲みながら親交を深めている。10周年記念講演会は「韓国の人たちに聞き応えのある日韓関係論を」と企画、無料開放された。100人を超える入場者の3割以上を韓国人が占めた。




どんな史料が今後発見されても、この説を韓国人が認めることはないんだろうなぁ。



 

韓国と歴史は共有できない―日韓歴史共同研究のまぼろし 韓国と歴史は共有できない―日韓歴史共同研究のまぼろし
勝岡 寛次

韓国・中国「歴史教科書」を徹底批判する―歪曲された対日関係史 韓国人の日本偽史―日本人はビックリ! なぜ抑制が働かないのか 韓国ナショナリズムの不幸 「反日韓国」に未来はない パール判事の日本無罪論

by G-Tools
日本ニュース | コメント(12) | トラックバック(0)
コメント
  1. >白村江の戦い、秀吉、第二次大戦、小泉外交……。「東アジアにおける外交戦略」は現代的な課題でもある。
    最後にお約束の一言を忘れないとは、毎日もやるな
  2. 日本では職人は尊敬される伝統がある。
    朝鮮では職人は軽蔑される伝統がある。
    この一点だけでも、「唐入り」後の朝鮮人陶工が自ら望んで日本に来たことが覗える。
  3. 解脱者は半島脱出するのも伝統
    ※未帰化は寄生虫なので該当しません
  4. >(1)薩摩に来たのは豊臣秀吉軍の日本帰還から約2年後だった
    >(2)17の姓それぞれの集団がほぼ均等の人数で構成されていた
    >(3)朝鮮での地位は高くなかったと指摘。
    >その上で、陶工集団は豊臣軍が強制的に連れ帰ったのではなく、望んで渡来した、もしくは朝鮮側の選抜によって渡来したのではないか、との仮説を提示した。
     こうやって検証された歴史事実を一つ一つ積み重ねて行く事は、朝鮮族子弟が韓国内や朝鮮学校で受けた恣意によって歪んだ歴史教育から虚偽のベールを一枚ずつ剥がして行くことであり、朝鮮族自ら糺す指標が確立できるのみならず、結果、世界史に正しい極東史を刻むことになって、左翼の偏向教育によって歪んだ日本の戦後の歴史教育も糺せると思う。
     「歴史は勝者が造る」ダケで放置しては、歴史学によって浮かび上がるべき「人間が造る社会に於ける学ぶべき真実の流れ」が、劣等感を覆う為ダケに為された恣意によって捏造された、勝者?にとって都合の良い意味のないモノに成ってしまう、それでは、人類は同じ過去を繰り返すダケの愚かさを永遠に克服できないだろう。
     朝鮮族は、自ら立つ為に一体何をすべきなのか、他国や他民族に寄生する事では無い事は明白だ。
  5. >>ナポレオン・ソロさん
    だがちょっと待って欲しい。
    自ら立って何の得があるというのだろう。寄生したほうが得である事も明白ではないだろうか。
  6. この当時は朝鮮の方が陶工の技術が上だったのではなかったかな?(朝鮮白磁に代表される様に)
    だから、迫害される朝鮮よりも陶工を大事にする日本に移り住む気になったのではないかと思うんだが…?(間違いだったらスミマセンw)
  7. 李朝白磁は今も昔も珍重されているのは日本だけです。
    発祥の地、朝鮮半島では一般使いのなんでもない雑器として扱われていて、人気もありません。
    一方、日本では自然なゆがみやおおらかな造形が受け、茶器や花入れなどあらゆる用途に用いられ、人気も高かった。つか、今でも人気は高い。
    職人の扱いの差もあったでしょうが、需要の差も大きかったんじゃないでしょうか。
  8. >寄生したほうが得である事も明白ではないだろうか。
     そう考える朝鮮族が多かったからこそ、現在の半島があると考えるのが宜しかろう、永遠に自立できない、否、目先の楽に溺れて、自立の道を自ら潰してきた情けない民族なんだと言う事ですね。
     ですから、今更、自分達の歴史を捏造して、有りもしなかった独立運動、レジスタンスを創作しても、実が無いから直ぐにバレる。
     太平洋戦争末期に徴兵した朝鮮兵の大半は使い物にならなかったのも、利己的で困難を避けるのが当然の社会に育ったのだから、国のため「=家族を含め、自分以外の人のため」に命を捨てる決心をするのが難しいのは当たり前でしょう。
     その線から言えば、彼等の大半が勇ましくなるのは、自分達が絶対優位に立った時です、勿論、例外も沢山居たでしょうが。
  9. 荒山徹さんの小説は面白いですよ。山田風太郎が好きなら、この人の小説も気に入るのではないかな。
    朝鮮人の捏造癖、日本に対する屈折したプライドについて、嫌韓流発売より前に書いています。
    くわしいことはネタバレになるから書けませんが、朝鮮云々を抜きにしても面白い作品です。お試しください。
  10. 彼らはこれから長きに渡って、時空もろとも流浪の民になっていくのだろうが、
    そこに危機感を持つ少しは賢い香具師はおらんのか。
  11. 一読したところ、瓦解してしまう可能性もあるレベルの仮説のようですが、面白いですね。それにしても、
    > 熊本県の加藤神社には、清正に殉死した朝鮮人・金官が合祀されている。その説明文はこのほど、韓国側の指摘を受けて撤去されたという。有田焼の陶祖・李参平の碑文(1917年建立)にある「征韓」などの表記には、韓国側からクレームがつき、昨年、新しい碑が建立された。
    日本人よ、しっかりしてくれ!
  12. 「揮刀如?」
    「日本の武士の刀術はまるで神の如しだ。
    我々の明兵は武士を見れば皆身がすくみ逃げ腰になる。
    刀術に優れた武士だが刀術だけではなく飛び道具の扱いも我が銃兵と互角である。
    弓の扱いも我が弓兵と互角、そのほかあらゆる兵科と比べて不足が見つからない。
    本当に日本人は殺戮者だ。その家には刀を持たぬものは無く、
    子供の頃から剣術を鍛えられ始め、壮年にいたれば手に負えなくなる。
    それゆえ接近戦は日本の武士に一方的に有利で明兵では相手にならない。
    日本人を有効的に殺せるのは火器のみである。
    であるにも拘らず、多くの鳥銃手を擁している我が明兵が勝てないのは外でもない。
    日本人は戦いに臨んで命を忘れるが、我が明兵は戦いに臨んで恐れてしばしば勝手に逃げるため、その鉛子は地に堕ち、あるいは薬線が法なく、手震え、目眩み、天を仰いで空しく発射する為である。」

管理者のみに表示

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。